原作は水上勉によるエッセイ『土を喰ふ日々 わが精進十二ヶ月』。1987年出版。
それをもとに2022年中江裕司の監督・脚本により映画化されたもの。
作家のツトム(沢田研二)は、人里離れた信州の山荘で、犬のさんしょと13年前に亡くなった妻の八重子の遺骨と共に暮らしている。口減らしのため禅寺に奉公に出され、9歳から精進料理を身に着けた彼にとって、畑で育てた野菜や山で収穫する山菜などを使って作る料理は日々の楽しみのひとつだ。とりわけ、担当編集者で恋人の真知子(松たか子)が東京から訪ねてくるときは、楽しさが一段と増す。
山荘から少し離れたところに、八重子の母チエ(奈良岡朋子)が畑を耕しながらひとりで暮らしている。時折様子を見に来るツトムを、チエは山盛りの白飯、たくあんと味噌汁でもてなした。八重子の墓をまだ作っていないことを、今日もチエにたしなめられた。
塩漬けした梅を天日干しにする季節、ツトムの山荘に文子(檀ふみ)が訪ねてくる。彼女は、ツトムが世話になった禅寺の住職の娘。住職に習った梅酢ジュースを飲みながらの昔話。文子は、亡き母が60年前に住職と一緒に漬けた梅干しを持参していた。「母は、もしツトムさんに会うたらお裾分けしてあげなさい、と言うて死にました」と文子。夜、ひとりになったツトムは、作った人が亡くなった後も生き続けている梅干しの味に泣いた。
チエが亡くなった。義弟夫婦(尾美としのり、西田尚美)に頼まれて山荘で葬式を出すことになったツトムは、大工(火野正平)に棺桶と祭壇を頼み、写真屋(瀧川鯉八)に遺影を頼みと、通夜の支度に大忙しだ。東京から真知子もやって来て、通夜振る舞いの支度を手伝うことに。
夜、思いがけなくたくさん集まった弔問客は、チエに作り方を習ったそれぞれの味噌を祭壇に供えた。
葬儀のあと、真知子を栗の渋皮煮でねぎらったツトムは、「ここに住まないか」と持ち掛ける。「ちょっと考えさせて」と応じた真知子だが、しばらくして、ふたりの心境に変化を生じさせる出来事が起こる――。
後で知ったのだが、原作者である水上勉の経験をもとにしたストーリー。
事実は小説より奇なり、とも言うが奇天烈な物語ではない。
むしろ淡々と季節が進み、人の営みがあり、生と死は長い年月の中ではかりそめの出来事でしかないことを感じさせられる。
自分が本作を観たいと思った理由はふたつ。
昭和後半に青春を送った人間なら
沢田研二を知らぬ人はいまい。
グループサウンズを経てソロ歌手となり頂点を極めた彼は、しかし派手なショービジネスからは離れた場所で生きている。
COVID-19により還らぬ人となった志村けんの代役を務めた映画『シネマの神様』でも役者として良い演技を見せている(らしい)が、本作でも年齢に見合うような演じ方をしている。
また、東日本大震災後に発表した作品(歌手として)は、原発反対に大きくかじを取った内容になっているため、商業的に成功しているとは言い難いが一貫した姿勢を貫く彼に好感を持っている。
そして彼自身原作者である水上勉と同じ京都の出身であり、ショービジネスの一線から離れ、むしろ俯瞰した立場にいることにより、主人公を演じるうえで良い味を出していると感じた。
昔から料理番組を見るのは好きなのだが、イマドキの「時短・手抜き・でも美味しい」料理を紹介する料理研究家とは一線を画した位置に立つ料理家。
いや、むしろ対極に位置する、と言った方がただしいかな。
著作を読んだわけではないが、時々テレビで目にする彼の言動や今回の映画化に伴うラジオ出演でのトークを聞いたりして、更に好きになっている人物。
そんな今の時代の最先端を行くわけではない2人が関わっている作品、堪能しました。
あらすじにもあるように、激動の人生を歩むわけでもない主人公。
妻に先立たれ、義母を見送るという「普通の人生」のひとつを淡々と語るのだが、そこにはふたつの要素が絡んでくる。
季節と料理だ。
禅寺で学んだ精進料理を恋人にふるまう姿は嬉しそうで、まさに「おもてなし」の精神を地で行く主人公の姿は微笑ましいばかりではなく、本来のふるまい料理というのは高級なものを供するのではなく素朴な素材でも手をかけて心を込めて作ることが必要なんだなと思い出させる。
そこに季節が関わってくる。
たけのこ、いも、うめ、みそ、こめ、だいこん、さんさい、ごまどうふ、みょうが、きゅうり・・・あ~、全部うまそうだ。
そして主人公が語る作中のせりふに料理による喜びが凝縮されている。
『好きな人と食べていると楽しいし美味しい。それが人間じゃないのか。』
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